刑罰の本質は『応報』である

これが、僕が出した結論です。
そう考えた理由を、以下に示していきます。
すべての刑罰に『応報』の要素が存在する
罪を犯した罰として、お金を奪う。
罪を犯した罰として、自由を奪う。
そして、罪を犯した罰として、命を奪う。
罰金、拘禁刑、死刑。
このすべての刑罰に、応報の要素が存在します。
犯人が改心して更生したら…

極めて可能性が低い話ですが、
凶悪かつ残忍な犯罪をした人間が、
矯正教育の必要がないほど改心し、
隔離の必要がないほど、
再犯の可能性が低くなったとしたら…?
それでも、

釈放!
とは、ならないですよね。
犯した罪への償いとして、罰を受ける
更生や隔離の機能が必要なくなっても、
応報の必要性は、決してなくなりません。



比較的軽微な犯罪の場合は、執行猶予付きの有罪判決(=応報は宣告されるが、社会復帰の機会を与えるために、刑の執行が猶予される)になることもあります。
刑罰についての学説の歴史という観点から
世の中の様々な物事において、
原始的なものが、その物事の本質である
と言えることって、多いと思います。



社会の初期段階には、人間の本能に根ざした、必要最小限度の考え方や制度が形成されたと考えられる。
そして時代が進んで社会が成熟していくと、それに派生的・装飾的要素が追加され、複雑化・多様化していく。
すべての物事がそうではありませんが、そういう傾向ってあると思うんです。
そこで、
刑罰についての学説の歴史を調べてみました。
以下は、Wikipedia「刑罰」の項の引用です。



引用文は長いので、以下に簡単にまとめてあります。
お時間のない方は、読み飛ばしていただいてもOKです。笑
刑罰については、絶対主義、相対主義、併合主義の3つの立場がある。
絶対主義
刑罰は正義を回復するための道義的必要に基づく応報であり、犯罪を行ったから罰するものであるという立場を絶対主義という[3]。
絶対主義は絶対的応報刑論を内容としている[3](応報刑論を参照)。絶対的応報刑論の論者としてカントやヘーゲルがいる[4]。
相対主義
刑罰の合目的性・有用性から刑罰は犯罪を行わせないために罰するものであるという立場を相対主義という[3]。
相対主義は目的刑論を内容としている[3](目的刑論を参照)。
相対主義には一般予防論と特別予防論がある[4]。
一般予防論とは、刑罰は犯罪者を処罰することにより社会の一般人を威嚇し犯罪が発生することを抑止する目的をもつものであるという立場をいう[4]。
一般予防論は中世における不合理で残虐な刑罰を批判し、相対主義によって刑罰の合理化や緩和化を図ろうとしたもので、一般予防論の論者としてベッカリーアやフォイエルバッハがいる[4]。
特別予防論とは、刑罰は犯罪者を処罰することにより犯罪者自身を改善するもので、それによって将来の犯罪を抑止する目的をもつものであるという立場をいう[4]。
併合主義
絶対主義と相対主義の両者を統合し、刑罰には正義の回復と合目的性のいずれも存在し、犯罪を行ったがゆえにかつ犯罪を行わせないために刑罰は存するという立場を併合主義という[3]。
20世紀のヨーロッパ各国での刑法改正作業では応報刑論と目的刑論が対立していたが、応報刑論者も刑罰による犯罪者の改善の必要性を承認するようになったため併合主義が通説化した[4]。
引用元:Wikipedia「刑罰」
刑罰の思想は、まず応報刑論があり、
そこに対して、目的刑論が登場しました。
その後、両者を調停する併合主義が広まり、
現在は、それが学術的な通説とされています。
刑罰の本質は『応報』である
- すべての刑罰には、応報の要素がある
- 仮に、更生や隔離の必要性がゼロになっても、応報の必要性は残る
- 学説史において最初に登場したのは、応報刑論
更生・隔離・抑止が不完全だからこそ…
犯罪者に刑罰を与えても、
必ず更生するとは限りません。
有期の刑罰は、
犯罪者を一時的にしか隔離しません。
刑罰を極限まで厳しくしても、
犯罪を十分には抑止することができません。
だからこそ、
罪への “報い” として、相応しい罰を与える
これは絶対に必要なことであり、
これが刑罰の本質だと、僕は考えるのです。
刑罰の在り方を『応報』に寄せる
人間に、完璧な制度は作れないが、
本質を重視して制度設計すれば、
より納得感のある制度を作ることができる。
よって、刑罰の在り方も、
本質である『応報』に極限まで寄せれば、
多くの国民が納得できるものになるのでは?
そのように、僕は考えています。
続きます。